北海道はもともとアイヌ民族が暮らしていたため、アイヌ語に由来している市町村名が多数を占めます。アイヌ語地名については解釈が難しく、由来や意味など、解釈について諸説あるものが多く存在しています。その中でも、ここでは各市町村の見解を尊重し、各市町村公式サイトから引用するようにしています。市町村の公式サイト内にある概要や、資料のPDFなどもチェックしました。また、市町村の公式サイトに見当たらない場合はWikipediaなどを参考に、個人的見解も含めながら探っています。引用元に関しては()にて表示しています。
十勝総合振興局
「十勝」という地名は、管内を流れる十勝川をさすアイヌ語「トカプチ」からといわれています。意
味については、「乳房・ある処」「幽霊」「枯れる」などいくつかの説が存在しもともとの意味ははっきりとわかってはいません。(十勝総合振興局公式サイト「十勝管内概要「とかち2024」(PDF)」より)
十勝総合振興局の庁舎所在地は帯広市です。全道の振興局の中で一番広く、農業が盛ん。食糧基地としての役割を担う地域です。
帯広市
帯広の名の由来は、アイヌ語のオペレペレケプ(川尻がいくつにも裂けているところ)がなまってオベリベリ、そして帯広(おびひろ)になったと考えられています。(帯広市公式サイト~市章、花・木・鳥、名の由来「帯広の名の由来」より)
明治35年2級町村制が施行された際、帯広町となり、大正4年に帯広町は伏古村の一部を併合して1級町村制を施行、昭和8年、帯広は北海道で7番目の市となりました。
音更町
町名の音更は、アイヌ語のオトプケ(毛髪が生ずる)から転訛(てんか)したもので、音更川と然別川の支流がたくさん流れているところからついたと言われています。(音更町公式サイト~音更町の沿革と概要「町名の由来」より)
音更町は、明治34年音更ほか2村戸長役場が開設され、明治39年4月に然別・東士狩の両村をあわせて村名を音更村と改め2級村制を施行、大正10年には鹿追、上川(現在の士幌及び上士幌)の両村を分村するとともに1級村に昇格、昭和28年に町制が施行されました。
士幌町
町の名前になっている「士幌」は、アイヌ語の「シュウウォロー」が転訛して名付けられたものだと言われています。”広大な土地”を意味した「シュウウォロー」の発音を訛って変化させ、今の町名「士幌」ができました。(士幌町公式サイト~まちの紹介「士幌町について」より抜粋)
士幌町は、大正10年、当時の音更村から分村し「川上村」となり、大正15年には川合村の一部を編入し「士幌村」と改称しました。その後、昭和37年の町制施行で「士幌町」となりました。士幌町は農業が基幹産業で、農業を核とした街づくりに邁進しています。
上士幌町
アイヌ語のシュウウォロー(士幌)が語源で、士幌村から分村の際、川の上流に位置するので士幌の母村名に「上」の字を冠したものである。(十勝総合振興局公式サイト~十勝管内市町村の概要(PDF)「上士幌町」より)
1930年に分村した時に士幌より上流に位置するため上士幌となったため、士幌の由来と語源は一緒です。1974年、全国で初めて熱気球の大会が上士幌町で開催されました。以来、上士幌は熱気球の町として歩みを進めてきたようです。
鹿追町
鹿追はアイヌ語の「クテクウシ」からきています。
クテクウシの「ク」とは弓の称なれども、この場合は機弓、すなわちアマッポーという。クテクとは、柵の跡にして、柵を結びアマッポーを仕掛け、鹿を猟せし所なり。クテク・ウシ(鹿捕り柵、あるもの)のところと訳す。鹿追とは、これを和訳して呼ばれた地名である。井上 寿「十勝アイヌ語地名解」より (鹿追町公式サイト「位置と面積、町名の由来、地勢と気象」より)
一度読んだだけでは理解に苦しむような表現です。簡単に言うと「柵を設けて鹿の群を追い込んだ」というアイヌ語を「鹿を追う所」と和訳したということでしょう。
1921年、音更村より分村して、鹿追村となり、1959年に町制が施行され鹿追町となりました。
新得町
アイヌ語で肘、山の突出部分を意味する「シットク(本来は小さい ク)」に由来しています。新得山が佐幌川の方に肘のように張り出ている地形を言い表したものといわれています。(新得町公式サイト「しんとくちょうってどんなまち?」より)
1903年、北海道2級町村制を施行し、屈足村(くったりむら)となり、1915年、北海道1級町村制を施行し、新得村と改称、1933年に町制施行し、新得町となりました。町の面積の約9割が森林で、十勝地方では新得町だけが「特別豪雪地帯」となっています。
清水町
「清水」はアイヌ語で「明るく清らかな川」を意味する「ペケレベツ」を意訳したものです。 明治32年に開設した「ペケレベツ駅逓」の取扱人である村山和十郎が、人舞村、屈足村を直轄していました。しかし、駅名と一致せず行政・経済面で不便なため、昭和2年9月25日に清水村と改め、昭和11年1月1日より町制が施行され「清水町」となりました。(十勝清水町公式サイト「清水町の概要~町名の由来」より)
清水町の公式サイトによると、1903年、人舞村外一ヵ村戸長役場開庁したのが清水町の始まりで、1915年に屈足村と分離し、人舞村となりました。1923年、1級町村制施行を経て、1927年に清水村と改称、1936年の町制施行により清水町となりました。
芽室町
文字で書かれた歴史に「芽室」が初めて登場するのは、1800年(寛政12年)に十勝川を調査した皆川周修太夫の地図で「メモロ、ヒバイロ、ヒウカ、ヲトエペナイ、ケネ」などの地名が記され、このときメモロに2軒、ヒバイロに3軒の家があったと記録されています。
メモロの名は1808年(文化5年)の「東蝦夷地各場所様子大概書」の「戸勝場所大概書」にも見られ、十勝にあった40のコタン(集落)のひとつとしてあげられています。
「メモロ」とは、アイヌ語の「メム・オロ・ペツ(泉のわくところの川)」から来たと考えられています。
「北海道」の名付け親でもある松浦武四郎は2度にわたりメモロを訪れ、メモロのアイヌの住宅にも宿泊したと記録しています。
その後、明治33年(1900年)、芽室には戸長役場が置かれ、実質的の行政所在地としての「芽室村」が誕生しました。この時の戸数は424戸、人口1600人あまりでした。(芽室町公式サイト「芽室町の紹介」より)
芽室町はゲートボール発祥の地で、とうもろこしの作付け面積・収穫量ともに日本一を誇っています。公式サイトでも、コーンが『イチオシ』のようで、コーンに関する情報がたくさん紹介されています。
中札内村
札内川は、平成3年、5年、7~9年、11年、14年、17年、令和6年に「清流日本一」に選ばれました。サツナイとはアイヌ語で「乾いた川」を意味し、その名のとおり川の水は少なく見えますが、地下には伏流水が豊かに流れています。(中札内村公式サイト「日高山脈襟裳十勝国立公園と札内川~札内川」より)
中札内村の村名の由来について公式サイトでは見つけられませんでしたが、札内川の項目で札内について触れていました。中札内むらはこの札内川の中流に位置することで中の字がつけられたようです。1947年、大正村から分村して中札内村がが誕生しました。
更別村
村名の「さらべつ」は、その昔サラベツ川、サッチャルベツ川流域が葦や茅に覆われた平原であったことを意味するアイヌ語の「サラ・ペツ」(葦や茅が生い茂る地)に漢字を当てはめたことからきています。(更別村公式サイト「沿革」より)
中札内村同様、1947年に大正村から分村して更別村がが誕生しました。
大樹町
アイヌ語で「大木が群生するところ」を意味する「タイキウシ」からつきました。(大樹町公式サイト「町の紹介・町の統計~町名の由来」より)
大樹町は、1928年広尾村から分離し、大樹村となり、1951年の町制施行により、大樹町となりました。私にとって大樹町はチーズのおいしい町というイメージでしたが、最近では宇宙開発の町というイメージの方が強くなってきています。あくまでも個人的見解です。
広尾町
町名は、アイヌ語の「ピルイ」が語源といわれ、「ピ」は石が転がる、「ルイ」は砥石(といし)がとれる地という意で、この言葉が変化し、明治2年の国郡制定で広尾郡茂寄村が誕生するまでの間「ピロー」、「ビロウ」などと呼ばれていました。また、昭和元年10月に広尾郡広尾村に改称され、昭和21年9月20日に町制施行により、現在の広尾郡広尾町となりました。(広尾町公式サイト「町の概要~町名の由来」より)
1869年、明治政府は蝦夷地を北海道と改称し、北海道開拓史を置いて11国86郡を設置し、その内、十勝国が広尾郡を含め7郡となりました。広尾町では、この年を開町の年とし、1947年の町制施行により、広尾町となりました。
広尾町と言えば「サンタランド」。サンタの町です。広尾町の「サンタランド」は、ノルウェー国外で初めて認められたサンタランドです。
幕別町
本町は、北海道・十勝の中央部からやや南に位置し、西は十勝の主要都市である帯広市
と更別村に、北は音更町と池田町、東は豊頃町、南は大樹町に隣接し、東西間で 20㎞、南
北間で 47㎞の距離で、面積は 477.64k㎡、人口は約 27,000 人となっています。
日高山脈を遠くに仰ぎ、アイヌ語で「マクウンペツ(山際を流れる川の意)」と言われる
ように、サケが遡上する猿別川をはじめ、札内川、途別川、十勝川、当縁川が流れ、平地
や段丘が広がる豊かな大地では、畑作や酪農を中心とした農業が盛んに行われています。
四季折々に美しい風景に彩られた本町は、北海道らしい自然に恵まれた素晴らしいまち
です。(幕別町公式サイト「第6期幕別町総合計画(PDF)」より抜粋)
1897年幕別村など7ヶ村が大津の戸長役場より分離し、「幕別外6ヶ村戸長役場」を猿別市街に設け、この年が幕別町の開基第1年目となりました。1906年に北海道2級町村制施行により、幕別村となり、1919年に1級町村制が施行され、開基50年の1946年、町制施行し「幕別町」となりました。
パークゴルフ発祥の地で、ナウマン象の化石骨が発掘された地ということで、幕別町は、パークゴルフとナウマン象のまちとして知られています。
池田町
池田町は明治32年5月「凋寒外13カ村戸長役場」の設置に始まり、平成20年に開町110年を迎えました。池田町に和人として初めて入植したのは山梨県出身の武田菊平氏で、明治12年のことでした。明治29年には本格的に開墾が始まり、旧鳥取藩主家当主の池田仲博侯爵による「池田農場」と大資本家の高島嘉右衛門氏による「高島農場」の二大農場によって開拓が進められました。明治の末期から大正時代にかけては水害や冷害、病虫害などによる凶作にたびたび苦しめられましたが、この苦難・苦闘の時代を乗り越えた先人と、先人によって切り開かれた豊かな大地が池田町の礎となっています。町の名称は明治39年に「凋寒村」とし、大正2年に「川合村」へ変更。大正15年には町制施行に伴い、現在の「池田町」に定めました。(池田町公式サイト「沿革」より)
凋寒村はしぼさむむらと読むそうです。凋寒村はアイヌ語由来の地名(アイヌ語で「セイ・オル・ サム(貝の傍らの意)」)のようですが、川合村は川の合流地点(十勝川と利別川の合流)で、最後の池田町は池田仲博侯爵の名前から付けられた地名です。
池田町はワインの町として知られています。池田町のワインづくりへの挑戦は昭和20年代後半から始まり、今も日々研究が続けられています。町営事業である十勝ワインは、町民とも深い絆でつながっているような気がします。中学校授業の一環で「ブドウ収穫」を体験し、成人式では自分の生まれた年のワインで乾杯し、自分たちが収穫したブドウからつくられたワインが町からの記念品として贈られるそうです。
豊頃町
豊頃町は、北海道十勝地方の東南端に位置する、農業と漁業を基幹産業とする人口約3,000人の町です。町名の由来はアイヌ語の「トエコロ」で、「大きなフキが生えていたところ」といわれています。
豊頃町は、明治13年(1880年)に大津外4郡戸長役場が置かれたのを開町とし、令和2年に140年を迎えました。(豊頃町公式サイト「豊頃町の概要」より)
豊頃町で町の開拓の祖として挙げられている「二宮尊親」は二宮尊徳こと二宮金次郎のお孫さんです。豊頃町民憲章では、「わたくしたちは、先人のたくましい開拓精神と、報徳のおしえをうけつぐことをほこりとし、この町民憲章を定めます。」とあるように、二宮尊徳が説いた「徳を以って、徳に報いる」精神が謳われています。
本別町
アイヌ語のポン・ペツ(小さい・川) を語源とし、本別市街地で利別川と合流する本別川から名付けられました。(本別町公式サイト「本別町町勢要覧」より)
「ホンヘツ」と初めて本別地方の名が北海道開拓使の文書に登場したのが明治2年で、明治35年、本別外五カ村戸長役場が開設、大正4年二級町村制施行により本別村となりました。大正12年一級町村制施行、昭和8年の町制施行により本別町となりました。
本別町は「豆の町」と言われ、良質な豆産地として高い評価を受けています。
足寄町
アイヌ語の「沿って下る川」を意味する「エショロ・ペッ」から転訛したというのが定説です。釧路方面から川沿いに十勝や北見に来るための道になっていたようです。(十勝観光連盟公式サイトとかち晴れ「足寄町」より)
足寄町は1955年に中川郡西足寄町と足寄郡足寄村が合併してできた町です。平成20年に開町100年記念式典が行われていますので、明治41年に足寄外3村戸長役場が足寄村に置かれたのが開町の年となっているようです。
ちなみに町名の由来は足寄町公式サイトでは見つけられませんでした。
陸別町
アイヌ語のリクンベツに由来し、意味は高く上がっていく川、又は危ない高い川。 昭和24年以前は淕 別(リクンベツ)でした。(陸別町公式サイト「町の概況・歴史~町名の由来」より)
1919年、足寄外3村戸長役場から分離して淕別村が誕生、1923年2級村制実施し淕別村(リクンベツ)となり、1949年淕別村(リクンベツ)を陸別(リクベツ)と改称、1953年の町制施行により陸別町となりました。
陸別町は日本一寒い町として寒さを利用したイベント(しばれフェスティバルや、寒さ日本一ランキング)も開催しています。
浦幌町
アイヌ語の「オーラポロ」が転訛して浦幌となり、「オー」は川尻、「ラ」は草の葉、「ポロ」は大きいで「川尻に大きな葉が生育するところ」といわれています。(十勝観光連盟公式サイトとかち晴れ「浦幌町」より)
1900年、十勝・生剛・愛牛の3村を大津より分離、生剛村誕生。”このときをもって浦幌町の誕生としている。”と公式サイト(浦幌町発祥の地の紹介)に記されています。1906年 二級村制施行、1912年 生剛村を浦幌村と改称、1954年の町制施行により浦幌町となりました。
浦幌町公式サイトで町名の由来は見つかりませんでした。
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