北海道はもともとアイヌ民族が暮らしていたため、市町村名はアイヌ語に由来している名前が多数を占めます。アイヌ語地名については解釈が難しく、諸説あるものが多く存在しています。その中でも、ここでは各市町村の見解を尊重し、各市町村公式サイトから引用するようにしています。市町村の公式サイト内にある概要や、資料のPDFなどもチェックしました。また、市町村の公式サイトに見当たらない場合はWikipediaなどを参考に、個人的見解も含めながら探っています。引用元に関しては()にて表示しています。
オホーツク総合振興局
17世紀前半に現在のハバロフスク地方のオホーツクの地に入ってきたロシア人が、現地の住民にそこを流れる川の名前を聞いたところ、川を意味する「okāt」(エベン語)と答えた。ロシア人は、その言葉をその川の名前とし、川の河口につくった町を川の名前にちなんでオホーツクと名付け、さらにその町が面する海をオホーツク海と呼ぶようになりました。(参考文献:池上二良1988「ことばの上からみた東北アジアと日本」『北海道の文化59』北海道文化財保護協会。北海道立北方民族博物館ホームページ)
なお、オホーツクの語源については諸説あるようですが、「もとはロシア語ではなく、土地の原住民のことば」が由来で、「日本列島に住む私どものことばも、広義にいえばツングース語の遠縁の言語になる」という説もあります。
(引用部分:司馬遼太郎『街道をゆく38<オホーツク街道>』)(オホーツク総合振興局公式サイト「管内概要(オホーツク2024)~オホーツクの歴史、裏表紙(PDF)」より)
オホーツクとは、ツングース語で「広い川」を意味するようですが、公式サイトでは見つかりませんでした。ツングース語は主にシベリア東部・沿海地方、満洲(中国東北部)に住むツングース系民族の言語だそうです。
オホーツク総合振興局の所在地は網走市で18の市町村(3市14町1村)があります。オホーツクと言えば流氷。1月下旬から3月中旬頃まで、沿岸で見ることができます。しかし、近年流氷は、地球温暖化等の影響により減少してきているようです。
北見市
明治政府に国名を諮問された松浦武四郎が「この地一帯を従来から北海岸と唱えて きたので、北の文字を用い、カラフト島が快晴の日には見えるので、北見としてはどうか」と進言したことによるものです。(北見市公式サイト「北見市勢要覧2024(PDF)」より)
北見市の行政の始まりは、常呂外六箇村戸長役場が開設された明治16年です。明治30年には常呂外六箇村戸長役場から野付牛、生顔常村が分離し、野付牛外一箇村戸長役場が設置されました。明治42年に二級町村制を施行して生顔常村を廃し野付牛村となり、大正4年、置戸村、武華村が分村し一級町村制を施行しました。一方、常呂村は少牛村、太茶苗村、手師学村と統合し常呂村二級町村制を施行しました。大正4年に野付牛村から分村した武華村は大正10年に町制を施行、留辺蘂町となりました。野付牛町は大正5年に町制を施行し野付牛町となり、大正10年に相内・端野を分村、昭和17年に市制施行、北見市となりました。昭和25年、常呂村は町制を施行し常呂町となり、昭和17年に分村した端野村は昭和36年に端野町となりました。平成18年、北見市・端野町・常呂町・留辺蘂町が合併し、新「北見市」が誕生しました。
北見市は人口・面積共にオホーツク圏最大の都市で、オホーツクの中核都市といえます。
網走市
「網走」という地名は「ア・パ・シリ」(我らが見つけた土地)から出たとも、「アパ・シリ」(入り口の地)あるいは「チバ・シリ」(幣場のある島)などの諸説があって定まりませんが、いずれにしろ「アパシリ」というアイヌ語を漢字にあてたものとされています。(網走市公式サイト「市名の由来と紋章~市名の由来」より)
明治5年、北見国網走郡の呼称が定まり、網走村の名が与えられたのが開基となっています。大正4年、1級町村制を施行、昭和22年には市制を施行し、網走市となりました。
明治30年網走支庁を設置の際、支庁所在地となり、現在もオホーツク総合振興局所在地となっています。
紋別市
1869年(明治2年)7月8日、北海道開拓使が設置され北海道の開発が始まりました。その年の8月15日、北海道の様子に詳しい判官松浦武四郎の意見でエゾ地は「北海道」と命名され、太政官から北海道11国86郡が布告されました。
これにより、北見8郡のうち紋別郡が誕生しました。
続いて1872年(明治5年)3月に、紋別郡の10カ村の村名が決まり、モンベツ村と呼ばれるようになりました。
「紋別」と呼ばれるようになったのは、1875年(明治8年)5月に通達が出され、管内一斉に町村や港の名前に漢字を当てることになってからです。
古文書には、紋別の地名はカタカナあるいは平仮名で「まうべつ、モベツ、トマリ」などど書かれ、漢字では「紋部津、紋部地、茂武遍津、紋辺津」などの文字が当てられていましたが、これを機会に「紋別」の地名が定着しました。
紋別の地名は、アイヌ語の「モペッ」(静かな川の意味)からきています。
紋別市の中心地の地名が、川がないのに「モペッ」(静かな川の意味)と呼ばれるのは不思議に思われますが、もともとは元紋別を流れている「藻鼈川」を指したもので、モペッコタンに住んでいたアイヌの人たちが付けた地名です。
現在の紋別市街の方に番屋ができて、モペッコタンに住んでいたアイヌの人たちが移り住むようになり町並みができると、いつの間にか地名も移動し「モペッ」が使われるようになりました。(紋別市公式サイト「市名の由来と紋章~市名の由来」より)
明治13年紋別他9村戸長役場が設置され、これが紋別市の開基年とされています。明治42年、紋別ほか二級町村制施行、村名を紋別村とし、大正8年町村制施行、大正10年4月一級町村制施行し、昭和29年紋別町、渚滑村、上渚滑村を合併して新たに紋別市を設置しました。
オホーツク海岸のほぼ中央に位置し、ガリンコ号など流氷と深いかかわりを持つ紋別市は、一年を通じ
流氷を体験できる施設が整備されています。
大空町
大空町という名称は、澄み切った大空、そしてその大空の下に広がる実り豊かな大地のもとで、住民が夢や希望を持ち、晴れ晴れした気持ちで暮らしていくことを(意味する。)めざすものとして命名されました。(大空町公式サイト「大空町の概要~町名の意味(由来)」より)
明治23年、マッチ軸の木材採取により人が居住、これが女満別町のはじまりで、明治39年、基線道路の開通を機に開拓者が入植し、これが東藻琴村のはじまりです。大正10年に女満別村が発足し、昭和26年に町制を施行し、女満別町となりました。一方東藻琴村は昭和22年に網走町から分村して村制を施行しました。平成18年、女満別町役場を大空町役場とし、東藻琴村役場を大空町役場東藻琴総合支所として「大空町」が誕生しました。
東藻琴の芝桜は見ごたえ満点。かわいいノンキ―マークがお出迎えしてくれます。
美幌町
多くの清流が、合流して水量が豊富なところをアイヌ語で「ピ・ポロ=水多く・大いなる所」といい、これが転訛して「ビホロ」と名付けられました。
明治初期までは、カタカナで表記していましたが、明治8年5月に漢字の「美幌」に統一されました。
この名のとおり、美幌町には大小合わせて60本を数える美しい川が流れ、とりわけ美幌峠を源とする美幌川は「母なる川」として多くの恵をもたらしてきました。
美幌川沿いの一帯は、美幌の発祥地と言われ、流域のあちこちに先住民達の生活の跡が残っています。(美幌町公式サイト「美幌町のご紹介~地名の由来」より)
明治20年、美幌外五ヶ村戸長役場が美幌村に開庁され、これが美幌町の始まりです。大正4年2級村制施行により美幌村となり、大正12年1級町制が施行され「美幌町」となりました。
美幌町はその名の通り、美しい景色が魅力。この自然が創り出す芸術をいつまでも保ち続けてほしいと願っています。
津別町
アイヌ語の「ツペツ(山の出ばなを通って流れる川)」が通説となっています。(津別町公式サイト「津別町について~町名の由来」より)
明治16年、旧土人救済事務所の設置が活汲に設置されたのが津別町の開基とされています。明治20年 美幌外5ヵ村戸長役場が開設され、大正4年美幌村となり、大正8年に美幌村から分村し津別村が誕生し、昭和18年町村制を施行、昭和21年の町政施行により津別町となりました。
屈斜路湖を見下ろす峠としては美幌峠が有名ですが、津別峠からの景色もおすすめ。標高は津別峠の方が高いため、雲海を見たいならこちらの方が良いかもしれません。
斜里町
アイヌ語のサルまたはシャルより転訛したもので、いずれも「アシの生えているところ」の意味です。(斜里町の公式サイト「町のあゆみ~町名の由来」より)
明治5年、斜里郡の村名が定められ、シャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生しました。開基は、明治12年に斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村戸長役場が設置されたのが始まりです。大正4年、2級町村制を施行し、斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁を合併して斜里村となり、昭和14年、町制を施行し斜里町となりました。
斜里町は世界遺産「知床」を有する町です。ウトロ地区と呼ばれる一帯には大小の温泉宿があり、観光客でにぎわいを見せています。
清里町
清里町は清らかな里であるという意味と、小清水村と斜里町から分村したという歴史を将来に残す意味(「清」は小清水の清、「里」は斜里の里である)を兼ねて名付けられました。(清里町の公式サイト「ようこそ清里町のホームページへ~まちのシンボル-町名の由来」より)
開基は、明治30年野川駅逓所の塚本伊勢太氏が退任して神威10線21号に定住し、開墾の鍬を
打ち込んだ時とされています。昭和18年斜里町と小清水村から分村し上斜里村が誕生。昭和30年、町制が施行され、清里町と改称しました。
摩周湖の東側に位置する裏摩周展望台、日本百名山の一つの斜里岳、阿寒摩周国立公園にある神の子池など、恵まれた自然から湧き出る水、「清里町」の名にふさわしい水の清らかな里であること、間違いなしですね。
小清水町
明治23年(1890)、網走釧路間に仮県道が開削され、翌24年に駅逓が開設されました。当時、県道沿いのポンヤンベツ川付近(現在の元町1丁目)に湧き水があり、きれいに澄んだ冷たくおいしい飲み水として旅人らに親しまれていたので、この小さな清水の名をとって駅逓の名を「小清水」と定めました。また、ポンヤンベツ川の名そのものも、アイヌ語でポン(小さい)、ヤムベツ(清水の川)という意味を持ち、小清水市街地がこの川のほとりにできたこともあり、両方の由来から大正8年(1919)の第一回村会において村名を「小清水村」と決定しました。(小清水町公式サイト「町勢要覧2022(資料編)~沿革・自然(町名の由来)」より
小清水町の歴史は明治12年「郡区町村編成法」が制定され、斜里郡斜里村外4ヶ村の行政区が確定したのが始まりで、大正8年斜里村から分村し小清水が誕生。昭和28年10月には町制施行され小清水町となりました。
小清水原生花園は、園内にJR釧網本線の原生花園駅が夏季限定で設置されています。
訓子府町
訓子府町の名は、アイヌ語で「クンネプ」から転訛したもので「黒いところ、やち川にして水黒し」の意味から由来しています。(訓子府町公式サイト「町名の由来と歴史~町名の由来」より)
明治30年高知県から北光社移民団13戸がオロムシ(現在の大谷地区)に入地したのが訓子府町の開基となっています。大正4年、野付牛村に1級町村制が施行され、今の訓子府は置戸村の一部として野付牛町
(現北見市)から独立し、さらに大正9年、置戸村から独立して訓子府村となりました。昭和26年に町制を施行し訓子府町となりました。
訓子府町は日照時間が全国でも高い方なんです。寒暖差が大きく、その気候を活かして、農作物を育てています。特に訓子府メロンはお勧めです。
置戸町
アイヌ語の「オケトウンナイ」(鹿の皮を乾かすところの意)より転じたもの。(オホーツク総合振興局公式サイト「R5行財政概要(PDF)」より)
置戸町公式サイトでは町名の由来については見つけられませんでした。
開村は大正4年、野付牛村から分村し置戸村となりました。昭和25年に町制を施行し置戸町となりました。
置戸町で思い浮かぶのは「オケクラフト」。日用品などそろえると、温かい木のぬくもりを感じながら生活できそうです。
佐呂間町
アイヌ語の「サロ・オマ・ペット(葦のあるところ「サラ・オマ(葦のあるところの沼)」から”サロマ”となり、大正4年に”佐呂間町”と和文に転用したものです。(佐呂間町公式サイト「佐呂間町について~町名の由来」より)
1894年(明治27年) 青森県人が浜佐呂間に定住したことが佐呂間町のはじまりです。1897年 (明治30年)に常呂外4ヵ村戸長役場が設置され、1914 年(大正3年)に常呂村から分離独立し鐺沸村戸長役場を設置、1915年(大正4年)には、2級町村制を施行して村名を佐呂間村と改称しました。1943年(昭和18年)、1級町村制を施行、1953年 (昭和28年)町制が施行され佐呂間町となりました。
北海道で1番大きな湖「サロマ湖」に面した町で、サロマ湖展望台からはサロマ湖全体を見渡せます。
遠軽町
地上から約78メートルにそびえる瞰望岩(がんぼういわ)は、アイヌ語で「インカルシ」、見晴らしの良いところという意味です。えんがるの町名はこの言葉に由来するほど、瞰望岩は町のシンボル的な存在で、町のあらゆる所から望むことができ、その場所ごとに表情が変わります。アイヌの人々の古戦場となったドラマチックな伝説もあります。登り口から頂まで登ってもわずか数分、素晴らしい眺望が広がります。北海道自然百選にも選ばれました。(遠軽町公式サイト「瞰望岩(がんぼういわ)」より)
仙台の日本基督教会、東北学院の創始者である押川方義氏や東北学院神学部出身の信太寿之氏などによって設立された北海道同志教育会が、キリスト教主義の私立大学を設立するという希望を胸に明治30年、学田農場に入植しました。この夢は、実現しませんでしたが、これが遠軽の歴史のはじまりです。大正8年に二級町村制施行により、上湧別村から分村し遠軽村となりました。大正14年、遠軽村から生田原地区が分村し生田原村となり、遠軽村は、昭和9年一級町村制施行により遠軽町となりました。昭和21年には、丸瀬布地区と白滝地区が分村し、丸瀬布村、白滝村となり、丸瀬布村は、昭和28年町制施行により丸瀬布町となりました。また、生田原村は、昭和29年に町制施行により生田原町となり、平成17年、かつて(大正8年に二級町村制施行の頃)同じ遠軽村であった遠軽町、生田原町、丸瀬布町及び白滝村の合併により、新「遠軽町」となりました。
遠軽町には、太陽の丘えんがる公園という、約65haの公園があり、その一角にコスモスをメインとする『虹のひろば』があります。約10haを埋め尽くす1千万本のコスモスは見ごたえありです。
湧別町
湧別(ゆうべつ)とは、アイヌ語で「鮫(サメの意味で、ユペと発音)の住む川(ペツと発音)」の意味で、これは昔、湧別川河口から近海にかけて相当数のチョウザメが生息していたことから、この名で呼ばれていたと言われています。
※諸説あり(湧別町公式サイト「湧別町の概要~町名」より)
明治15年に湧別原野に開拓の鍬が下され、これが湧別町の開基となっています。明治39年戸長役場が廃止され2級町村制が施行され、湧別村となり、明治43年に上湧別村を分村、湧別村を下湧別村と改称しました。昭和28年の町制施行で湧別町となり、上湧別村も町制を施行し上湧別町となりました。平成21年、上湧別町と湧別町が合併し、新「湧別町」となりました。
湧別町と言えばかみゆうべつチューリップ公園。町花がチューリップというのもうなずけます。
滝上町
町名の由来は、文字どおりたくさんの「滝」の上部に市街地があるという意味があります。(滝上町公式サイト「町勢要覧(PDF)」より)
明治38年、高知県出身の西森亦吾氏が上渚滑原野52線に入地し、開墾に従事したことから、滝上町のあゆみが始まりました。大正7年に渚滑村から分村し滝上村となり、昭和22年町制が施行され滝上町となりました。
芝桜で有名な滝上町ですが、実は100年以上前からハッカの生産が行われていて、現在は国内全体の9割ほどが滝上町で生産されているんです。昔は世界市場の7割を占めていたハッカですが、安価な海外製や合成ハッカの登場により、1983年に北見のハッカ工場は閉鎖。それに伴って、ハッカ生産する農家さんも減っていったようです。ここ滝上町でも数軒の農家さんしか残っていないそうです。
興部町
町名の「おこっぺ」はアイヌ語「オウコッペ」より転訛したもので、「川尻の合流しているところ」の意であり当時は、興部川、藻興部川が合流しオホーツク海に注いでいたところから、このように呼んでいたとされています。(興部町公式サイト「プロフィール~「おこっぺ」名前の由来」より)
明治22年に、藤野四郎兵衛氏が沙留に漁場を設置し定住、越冬させたのが始まりで、明治42年字興部を、紋別より字沙留、ルロチの2ケ村を分割併合して、興部村外2ケ村長役場が設置されました。大正4年北海道2級町村制が施行され興部村となり、昭和26年に町制を施行し、興部町となりました。
酪農と漁業が盛んで、乳製品が美味しい。もちろんホタテやカニもおすすめ。私、結構興部産のハム・ソーセージ関係にはお世話になっています。
西興部村
村の名の由来「興部」とは、アイヌ語の「オウコッペ」より転訛したもので、「川尻の合流したところ」の意があり、当時興部川と藻興部川が川尻で合流してオホーツク海に注いでいたので名付けられた。本村は、興部の西方に位置するので、西の字を冠したものである。(西興部村公式サイト「西興部村の概要~村名の由来」より)
町名の由来は興部町と同じですね。
大正14年に興部村(現在の興部町)から分村した時が西興部村の開基年となっています。
人口が1,000人を切っているこの村ですが、施設に「夢」の文字を使い、夢を育てる村づくりをしています。
雄武町
雄武という地名の語源は、アイヌ語の「オムイ」(河口が塞がる)に由来します。雄武川の河口は、嵐の時には、川から流れ出る水よりも、海から打ち寄せる波のほうが強く、河口が塞がってしまうため、このような名称がついたと言われています。(雄武町公式サイト「シンボル・歴史・地名の由来~雄武町の地名の由来」より)
開基は明治33年紋別村より分村して雄武外3村戸長役場のが設置された日とされています。昭和23年に町制が施行され雄武町となりました。
漁業では毛ガニやホタテ、鮭。農業ではアンガス牛。美味しいものいっぱいの雄武町です。
コメント