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北海道の35市129町15村の市町村名の由来

北海道はもともとアイヌ民族が暮らしていたため、市町村名はアイヌ語に由来している名前が多数を占めます。アイヌ語由来の市町村名には諸説あるものが多く、ここでは各市町村のホームページから引用するようにしています。市町村のホームページにある概要や、資料のPDFまでチェックしてみました。また、市町村のホームページに見当たらない場合は郵便局のHPやWikipediaより引用しています。

石狩振興局

札幌市
札幌の名の語源については、アイヌ語の「サリ・ポロ・ペッ」(その葦原が・広大な・川)とする説と「サッ・ポロ・ペッ」(乾いた・大きな・川)とする説などがあります。 (札幌市ホームページより)
江別市
アイヌ語の「ユベオツ」(サメのいる川)または「イブツ」(大事な場所への入口)が語源とされている。(えべつコレクション|江別市公式観光情報サイト より)
千歳市
かつて千歳一帯はアイヌ語で「大きなくぼみ」という意味の「シコツ」と呼ばれていました。文化 2 (1805)年、シコツ場所担当の箱館奉行調役並山田鯉兵衛嘉充が箱館奉行の羽太正養に新しい地名を付けたいと願い出ました。そこで当時シコツにたくさんいた鶴にちなみ、「鶴は千年」の「千年」をとって「千歳」と改名されました。( 北海道千歳市ホームページ  より)
恵庭市
アイヌ語の「エエンイワ」 (現在の恵庭岳を指し、鋭くとがった山という意)から転訛されてきたと言われています。 (恵庭市ホームページより)
石狩市
市名の「石狩」は、市を流れる石狩川からできた名前で、先住民であるアイヌ民族の言葉で石狩川を指す「イシカラペツ」に由来しています。その意味は「曲がりくねって流れる川」また「神様がつくった美しい川」と言われています。(石狩市ホームページより)
北広島市
明治17年(1884年)、和田郁次郎は野幌原野を開拓の地に選び入植。当時の北海道庁長官は「和田村」と名付けるよう提案しましたが、郁次郎は「皆で開拓したので」と固辞。仲間たちの故郷にちなみ「広島村」と名付けたのです。昭和43年(1968年)町制施行の際、北海道札幌郡広島町となり、平成8年(1996年)の市制施行の際には広島県広島市と混同することを避けるため、即日改称し「北広島市」となりました。(北広島市ホームページより参考)
当別市
当別はアイヌ語「トウペツ」(沼から来る川の意)からでたもの。 (当別町ホームページより)
新篠津村
新篠津村は、明治29年、篠津村(現:江別市篠津)から分村したことから名付けられました。 なお、篠津はアイヌ語で、「本流が同じ深さで、ゆるやかに流れる(シ・ヌッチ)」、「大きな原野が沼(のような)(シ・ノ・ト)」等の意味のようです。( 新篠津村HP参考)

後志総合振興局

小樽市
小樽という地名は、アイヌ語でオタ・オル・ナイ(砂浜の中の川の意)と呼ばれたことに由来します。(小樽市HP参考)
島牧村
村名「島牧」はアイヌ語「シュマコマキ」(背後に岩があるという意)から転化したもの。 (島牧村HPより)
寿都町
寿都(スツツ、スッツ)の名は、アイヌ語の「シュプキ ペツ(茅の多い川)」から「スツツヘツ」と訛り、これが現在の地名になった。語源となった「シュプキペツ」は現在の朱太川を指していたが、周辺一帯を商場所として設定していた。1868(明治2)年に、蝦夷地から北海道へと名称を変更したことと併せて、松前藩の設定した商場所を基に北海道を11国86郡に分けて設定した。その際の命名は、松浦武四郎が提案したものが基準となった。アイヌ語の音に漢字をあて、スッツ場所は寿都郡、ヲタスツ場所は歌棄郡、イソヤ場所は磯谷郡となった。(寿都町ホームページ「歴史文化基本構想」より)
黒松内町
アイヌ語の「クル・マツ・ナイ」(和人の女のいる沢)に由来しています。昔、出稼ぎの漁夫を慕ってきた妻たちが、この地でシケに遭い、そのまま滞留したと言われています。(黒松内町HPより)
蘭越町
明治32年、尻別村(旧磯谷村、現寿都町の一部)から分村して南尻別村となり、昭和29年12月1日、町制施行にあたって役場所在地が蘭越にあることから町名を蘭越町と改称し現在に至っています。蘭越とは、アイヌ語の「ランコ・ウシ」が訛ったもので、桂の木の多い所という意味です。(蘭越町ホームページより)
ニセコ町
「ニセコ」とは、アイヌ語で「切り立った崖」という意味があります。 また「ヌプリ」とはアイヌ語で「山」という意味があり、スキー場がある「ニセコアンヌプリ」という山は、アイヌ語で「切り立った崖(とその下に川)がある山」という意味になります。(ニセコ町HPより)
真狩村
アイヌ語「マクカリペッ」・・・羊蹄山を取り巻く川より転化したもの。(真狩村HPより)
留寿都村
アイヌ語の「ル・スツ」(道が山のふもとにあるという意味)から名付けられたものです。(留寿都村HPより)
喜茂別町
喜茂別は、アイヌ語「キムオペツ」(山奥にある川の意)より転か(喜茂別町HPより)
京極町
京極町は、明治30年に旧讃岐丸亀藩(現在の四国・香川県丸亀市)の藩主・京極高徳(たかのり)子爵の命によって京極農場が拓かれて以来、120余年を数えます。そして町名は開拓功労者京極高徳の姓によって名づけられたようです。(京極町HP「京極町へようこそ、町長です。」参考)
倶知安町
倶知安は「クッチャン」にあてた漢字。クッチャンはアイヌ語の「クッシャニ」から名付けられた。クッシャニは尻別川支流、倶登山(くとさん)川の旧名。クッシャニは「クッ・シャン・イ」で「くだの(ようなところ)を・流れ出る・ところ」の意。このクッ・シャン・イがクッシャニとなり、さらにクドサニと変わって倶登山川となる。一方、同じクッシャニがクッチャン(倶知安)となって地名となる。明治26年公示。漢字をあてたのは当時の北海道庁参事官白仁武。(倶知安町HPより)
共和町
1955年(昭和30年)4月1日:小沢村、前田村、発足村が合併して共和村となる。町名の由来について記述はないが、「共」は三地区の住民が、ともに力を合わせて新しい将来を築く姿をあらわし、下部の円は、共和の沃野と住民の心の和によって大きく発展する象をあらわしたものです。と「町章」で説明されています。(共和町HP参考)
岩内町
アイヌ語のイワウナイ(iwaw nay 硫黄の川)とする説や、イワナイ(iwa nay 山の川)とする説などがある。(郵便局検索α Yubin-kyoku Search alpha.より)
泊村
アイヌ語の”ヘモイトマリ(マスを寄せる入海)”に由来しています。(泊村HPより)
神恵内村
 アイヌ語の「カムイ・ナイ」(美しい神の沢)からきたもので、「地形がけわしく、人が近づきがたい神秘な沢」を意味しています。(神恵内村HPより)
古平町
古平という地名は現在の古平川と呼ばれている川の名前で、もとはポロベツと言われていたところで、この付近の大事な川でした。この川に赤い崖があって、それをフレピラ(赤い崖)と呼んだのが場所になったと言われています。(古平町HPより)
仁木町
仁木竹吉、徳島県阿波国から同志101戸、361名を率いて海路小樽港に上陸、余市町を経て仁木村に入植、開拓使余市郡に仁木村の新設を布達が仁木町の始まりです。(にきちょうHP「仁木町の歴史」より参考)
余市町
余市町においては、町名である「余市(イオチ:蛇がいるところ、松浦武四郎はイウヲチ:温泉があるところ、寅卯(東北東)の風の名前であるとしている。)」、本町の象徴的存在であるシリパ岬の「シリパ(シリパ:山の頭)」、国指定史跡であるフゴッペ洞窟の「フゴッペ(フム・コイ・ベ:波音の場所)」、よいち水産博物館のあるモイレ山の「モイレ(静かな(水面)、ゆったりと流れる)」など、アイヌ語に由来する地名が多く残されている。(余市町HPアイヌ文化拠点施設検討事業に係る公募型プロポーザルの実施について「アイヌ施策推進地域計画」より)
赤井川村
村名の赤井川には諸説由来があり、村ではアイヌ語「フレ・ペツ」(赤い川)を由来としています。明治32年、大江村(現在の仁木町)から分村し、赤井川戸長役場を設置、同39年4月2級町村制施行により赤井川村と称し、現在に至っています。(赤井川村HPより)

空知総合振興局

夕張市
アイヌ語のユーパロ(鉱泉の湧き出るところ)の転訛したものといわれています。(北海道夕張市ホームページより)
岩見沢市
明治11年に幌内煤田を開採のため、開拓使は札幌~幌内間の道路を開削に当たり、工事に従事する人たちのため、当市の北部、幾春別川の川辺に休泊所を設け、ここで浴(ゆあみ)して疲れをいやしたといわれています。 当時の人々にとって、この地は唯一の憩いの場所として、「浴澤」(ゆあみさわ)と称するようになり、これが転化して「岩見澤」(いわみざわ)と呼ばれるようになったといわれています。(岩見沢市HPより)
美唄市
美唄とはアイヌ語「ピパオイ(沼の貝の産するところ)」からきている。(美唄市ホームページ「美唄市統計の概況」より)
芦別市
「芦別」の語源には、「ハシュペッ」低木の中を流れる川、「アシペッ」立つ・川の二つがあるといわれています(芦別市ホームページ「芦別市の概要の沿革」より)
赤平市
赤平の地名はアイヌ語のアカピラが語源となっています。アイヌ語でアカは「山稜」を意味し、ピラは「崖」と訳し、「山稜の際にある崖」と解釈しています。その昔アカピラは、そこを通るアイヌにとって交通の難所と呼ばれていまして、それが次第に赤平という地域的呼称になっていったと考えられています。(赤平市HPより)
三笠市
空知集治監にあった裏山が奈良の三笠山に似ているという、囚人が望郷の念をこめて当時から三笠山と呼んでいました。(三笠市HPより)
滝川市
滝川市の語源は、アイヌ語の「ソーラプチ」=「滝下る所」を意訳したものです。  また、空知川の中流には滝のような段差がありアイヌの人々から「ソーラプチペツ」= 「滝のかかる川・滝の川」と呼ばれており、滝川という地名がつけられました。(滝川市HPより)
砂川市
砂川の語源は、アイヌ語のオタ・ウシ・ナイを意訳したものです。「オタ」は砂、「ウシ」は多い、「ナイ」は川を意味しています。石狩川と空知川に抱かれるような地形の砂川には、上流に歌志内を源とする「ペンケオタウシナイ川」と、下流に市街の中央を流れる「パンケオタウシナイ川」があり、アイヌ語の地名「オタウシナイ」が生まれたものと考えられています。(砂川市HPより)
歌志内市
市内を西に向かって二分して流れる「ペンケウタシュナイ川」の名に由来しており、アイヌ語で、「砂のたくさんある沢」という意味です。明治24年に北海道炭砿鉄道株式会社の鉄道開通の際、その意をとって歌志内と称し、これを地名としました。(歌志内市HPより)
深川市
アイヌ語のオーホナイ(深い川)に由来(深川市HP「アイヌ語地名一覧」より)
南幌町
南幌町(旧幌向村)は、ポロモイ(アイヌ語で大きくゆったりとした川曲がりの意味)と呼ばれていました。現在の岩見沢市に同名の地名があって紛らわしいため、町制施行の際に「南幌」となった。1968年4月1日 町名の読み仮名を「なんぽろ」に改称しました。(南幌町HPより)
奈井江町
奈井江は、アイヌ語の「ナヱ」から転訛したもので「砂多き川」の意味です。(奈井江町HPより)
上砂川町
 母町である砂川は、アイヌ語で「オタウシナイ」で「オタ」は砂、「ウシ」は多い、「ナイ」は川という意味から砂川と命名され、砂川の上流にあることから「上砂川」と決定し、分町によって「上砂川町」と命名されました。(上砂川町HPより)
由仁町
アイヌ語の「ユウンニ」(温泉があるところの意味)がなまったものといわれています。  明治25年、戸長役場がおかれ由仁村が誕生しました。昭和25年、町制施行。平成24年に開町120年を迎えました。(由仁町HPより)
長沼町
本町の西1線北15番地付近に、アイヌ語で「タンネト-」という沼がありました。タンネト-とは和名で“細長き沼”という意味で、ここから「長沼」という地名が生まれ、現在はこのタンネト-の碑が残されています。(長沼町HPより)
栗山町
「栗山」という語源は、アイヌ語の「ヤム・ニ・ウシ」に由来し、「栗の木の繁茂しているところ」に起源しています。(栗山町HPより)
月形町
月形町は、内務省御用掛権少書記官から樺戸集治監(明治14年~大正8年)の初代典獄に任ぜられた月形潔氏の姓を取り、明治14年7月1日、空知支庁管内第1号の村として誕生しました。(月形町HPより)
浦臼町
アイヌ語に由来するが諸説ある。
自然な説として挙げられるのは「ウライウシペッ(ウラユシペッ)」あるいは「ウライウシナイ(ウラユシナイ)」の転訛に由来するというもので、いずれも「簗・多い・川」の意。
このほか「ウラシナイ」(笹・川)からの転訛という説がある。(郵便局検索α Yubin-kyoku Search alpha.より)
新十津川町
明治22年8月奈良県吉野郡十津川郷で発生した大水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村とした。(新十津川町HPより参考)
妹背牛町
町名の由来はアイヌ語の「モセウシ」で、「モセ・ウシ・イ」(イラクサ・繁茂している・処)(カヤ刈りをする・のが習いである・もの<場所>)が転訛したものとされている。当初は「望畝有志」と表記されたが、1898年に現行の表記「妹背牛」に変更された。(郵便局検索α Yubin-kyoku Search alpha.より)
秩父別町
秩父別の名は、アイヌ語の「チックシベツ」に由来し、「通路のある川」を意味しています。(秩父別町HPより)
雨竜町
雨竜(うりゅう)とは、アイヌ語の地名「ウリロペツ」(鵜の多い川という意味)より転訛しもので、雨竜川の河口に多くの鵜が生息していたことから、このような名が付けられたといわれています。(雨竜町HPより)
北竜町
明治26年5月、千葉県の団体入植に源を発し、明治32年7月、雨竜町から行政区を分離し、戸長役場を置き、雨竜町の北に位置することから北竜町と称し、その発足をみた。(北竜町HPより)
沼田町
沼田町の開拓は明治27年、富山県人沼田喜三郎翁が郷里から18戸の移住を図ったのがはじまりです。 大正3年、北竜村より分離し、上北竜村と称し、戸長役場を設置しました。大正7年、幌加内村を分割しました。大正8年、二級町村制を施行、村名を上北竜村とし、大正11年町開拓の功労者である沼田喜三郎の姓より沼田村と改称、昭和22年に町制施行しました。(村田町HPより)

宗谷総合振興局

稚内市
アイヌ語の『ヤム・ワッカ・ナイ』 (冷たい水の出る沢)が語源(稚内市HPより)
猿払村
 猿払(サルフツ)の語源はアイヌ語の「サロプト」「サラブツ」から転化したもので『葦(芦)川口』『葦(芦)原の河口』を意味しています。(猿払村HP「地名の由来と歴史」より)
浜頓別町
町名は、アイヌ語の「ト・ウン・ペツ」(沼に行く川)を語源に転訛したと解釈されています。(浜頓別町HP「第6次浜頓別町まちづくり総合計画」より)
中頓別町
町名の由来は、アイヌ語の「トー・ウン・ペッ(湖から出る川)」からであり、頓別川の中流に位置するため「中」が冠してある。(郵便局検索α Yubin-kyoku Search alpha.より)
枝幸町
2006 年(平成 18 年)3 月 20 日、旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の新しい「枝幸町」が誕生しました。アイヌ語の「エサウシ」より転訛したもので、岬の意があります。また、頭を浜に出していることから名づけられたものです。(枝幸町HPより)
豊富町
町名は、「魚(食べ物)が豊富な川」という意味のアイヌ語の「エベコロベツ」
と言う町内の地名に由来します。そこから転じて、石炭、石油、天然ガス、温泉、泥炭等天然資源に恵まれた土地であったことから「豊富(ほうふ→とよとみ)」となりました。(豊富町HP「ふるさと名物宣言 ヘルスツーリズムタウン豊富」より)
利尻町
町名の「利尻」はアイヌ語「リイ・シリ」で「高い・島」を意味します。利尻島の中央に1,721mの利尻山がそびえ立つことから、「高い山のある島」と訳せます。(利尻町HPより)
礼文町
礼文島はアイヌ語「レプンシリ」に由来し、「沖の島」という意味で隣接する利尻島とは、輪郭はもとより、地形、地質、さらに生成時期などにおいて、まったく趣が異なっています。(礼文町HP「礼文町の概要(地形)」より引用)
利尻富士町
地名の由来は、アイヌ語の「リー・シリ」(高い島)に由来する利尻山の通称「利尻富士」から。(郵便局検索α Yubin-kyoku Search alpha.より)

留萌振興局

留萌市
アイヌ語のルルモッペが語源。ルルは(汐)モは(静)ヲッは(ある)ペは水)のこと。「汐が奥深く入る川」という意味で、留萌市を流れる留萌川から名づけられている。(留萌市HP「留萌市の概要」より)
小平町
町名の語源はアイヌ語の「オピラシペツ」o-pira-us-pet(河口に・崖・ある・川)で、町の中央を流れる小平蘂川の名に由来する。(郵便局検索α Yubin-kyoku Search alpha.より)
増毛町
増毛町の町名の由来は、鰊(ニシン)が群来(くき)ると海一面にかもめが飛ぶことから、アイヌ語で「かもめの多いところ」という意味の「マシュキニ」又は「マシュケ」が転じたものであるといわれています。(増毛町HPより)
苫前町
苫前町は、苫前の地名の由来が「トマオマイ」toma-oma-i(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))とアイヌ語から由来していることからもアイヌ民族と深い関係にあり、苫前町にはアイヌ民族の関連資料が多くあります。(苫前町HP「総合政策室の項目の「苫前町の宝」が決定!」より)
羽幌町
 「羽幌」は、アイヌ語の「ハポロペツ」が語源といわれ、「広大な川の流れる地」の意を含んでいるといわれています。(羽幌町HPより)
初山別村
村名の由来 「初山別/しょさんべつ」はアイヌ語で「ソウサンベツ/滝が・そこで・流れ出ている・川」の意から転訛したものと言われています。(松浦地名解/アイヌ語地名普及会)なお、他の地名解としては更科地名解の「シュシュ・サム・ペツ/柳原の近くの川」などがあります。
注:これまでは「しょさんべつ」の地名解は4通りの説がありましたが、平成12年からは標記のように表示することとしています。村章の由来(初山別村HPより)
遠別町
北海道蝦夷語. 地明解によると、ウイェペツ. 「相和する川」となっている。(遠別町HP「議会の概要」より)
天塩町
天塩町は、アイヌ語で「テシュ」から転訛したものと言われ、ヤナ(水中や木・竹・杭等を並べ水流を堰塞して、魚を捕獲する仕掛け)の意を含んでいるといわれている。(天塩町HP「天塩町の概要」より)
幌延町
幌延とは、アイヌ語の「ポロ」「ヌプ」が転化したもので、『大平原』を意味しており、広大な原野と山林を有しております。(幌延町HP「幌延のプロフィール」より)

上川総合振興局

旭川市
「旭川」と言う自治体名は、市内を流れる忠別川をアイヌが「チュクペッ」と呼んでいると和人が聞き取り、それを「チュプペッ cup-pet :太陽 川(転じて)日が昇る川」と解釈して、1890年(明治23年)に命名されたものである。

「チュクペッ」の音の解釈については、cuk-pet(cuk-cep):秋 川(秋 魚(転じて)鮭)、ciw-pet:波 川とする3つの説がある。(旭川市HPの博物館のページ「 アイヌ語地名表示板 」より)

名寄市
1700年代末から1800年代にかけて、探険家や役人の残した文献、地図に「ナエロ(ナエフツ)」「ナヨロフト」「ナヨロ」「ナイブツ」などの表記が現われます。これらは皆「名寄」に通じる名称だと考えられます。文献と地図にある「ナヨロ」「ナイブツ」は、もともとアイヌの人たちが呼びならわしていたものを、和人が文字に表記したものである。アイヌ語の「ナヨロ」は「ナイ・オロ(川・のところ)」の短縮形で、文献や地図から見ると名寄川そのものを指すようである。名寄川と天塩川の合流点は「ナヨロフト」で、「ナイブト」とも記され、地点を指す。松浦武四郎は「天之穂日誌」では、「此処をナイフトと云うはナヨロフトの詰語なり」と記し、『天塩日誌』で「左ナイブト 本名ナヨロフト」と記している。(「なよろ」の地名)(名寄市HP「新名寄市史」紹介ページより)
富良野市
アイヌ語の「フラヌイ hura-nu-i(臭・もつ・所)」が転訛したとする説が有力となっており、富良野川の水源が十勝岳であるために、硫黄の臭気を含むことから呼ばれたと考えられる。(富良野市HP「令和2年度~富良野市の概要」より)
士別市
 アイヌ語の「シペッ(本流の意)」から(士別市HP「まちの概要」より)
鷹栖町
鷹栖町が未開の地だった頃、トンビをはじめ、ハイタカやオオタカなどの大きな鳥が生息し、大空に輪を描いて舞っていたといわれています。その光景を目の当たりにした人らが「大きな鳥(鷹)の棲むところ(巣)」を意味するアイヌ語「チカップニ」と呼ぶようになったといいます。それが意訳され、「鷹栖」となりました。(鷹栖町HP「鷹栖町について」より)
東神楽町
神楽の地名はもともとアイヌ語で「神々の遊ぶと ころ」の意訳です。(東神楽町HP「東神楽町の概要」より)
当麻町
町名は、アイヌ語の「ト」(湖沼)、 「オマ」(に入る)、「ナイ」(川)に由来。ナイが落とされ現在の読み方になりましたが、経緯は不明です。(当麻町HP「町の概況・歴史」より)
比布町
比布(ぴっぷ)の地名は、アイヌ語のピプまたはピピから出たもので「沼の多いところ」あるいは「石の多いところ」の意といわれています。
昔は湿地帯が多かったことや、石狩川の川床には石が多かったためピプ、ピピが転訛し音訳して名付けられたと考えられています。(比布町HP「まちの概要」より)
愛別町
町章の説明で「愛別の語源である「矢川」(アイヌ語でアイペット)」となっています(愛別町HPより参考)
上川町
アイヌ語の「ペニ・ウン・グル・コタン」(川上の人の村)が語源といわれていますが、愛別村から分村する際に、石狩川の上流にあることから、上川と名付けたという説もあります。(上川総合振興局HP「大雪ものしり百科「産業編」|大雪山を囲う町の紹介 上川町」より)
東川町
忠別川のアイヌ語名「チュプ・ペッ」(日、または太陽が出る川という意味)が語源といわれています。旭川市と同じ語源です。(上川総合振興局HP「大雪ものしり百科「産業編」|大雪山を囲う町の紹介 東川町」より)
美瑛町
アイヌ語の「ピイェ」(油ぎった川、濁った川という意味)が語源といわれています。それを開拓者が、「ビエイ」と訛って読み、「美しく、明朗で王者の如し」という意味の漢字があてられ、美瑛と名付けられました。(上川総合振興局HP「大雪ものしり百科「産業編」|大雪山を囲う町の紹介 美瑛町」より)
南富良野町
町名の由来は、1908年(明治41年)に下富良野村(現在の富良野市)から分離独立した際、富良野の南方に位置していることによる。(郵便局検索α Yubin-kyoku Search alpha.より)
上富良野町
富良野の起源は、アイヌ語の「フラ・ヌ・イ」(においをもつ所)の転訛したもので、富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があって、そこから流れる川水に硫黄の臭気があるため、こう呼んだものである。
上富良野の起源は、富良野川の上流にあるため、(上)をつけたものである。(上富良野町HP「かみふらのの郷土をさぐる会機関誌」より)
中富良野町
町名は、アイヌ語のフーライがフラヌイとなり、臭くにおう泥土、または腐れ泥を意味するもので、十勝岳から流れる硫黄臭くにおう川が河道の定まらない湿地帯となり、開拓前のあたかも腐れ泥の態をなす泥炭地帯のこのあたりをを表現した地名となり、振縫、または富良野原野とよばれ、その中心が本町なのでこの名がつけられました。(「2000年中富良野町勢要覧」より)
占冠村
占冠(しむかっぷ)の名前の由来は、アイヌ語の「シモカプ(shimokap)」からで、『とても静かで平和な上流の場所』のことを意味しています。その名の通り今も変わらず、静かで平和な村です。(占冠村HP「占冠村のあらまし」より)
和寒町
和寒は昔「輪寒」あるいは「和参」とも書かれ、アイヌ語の「ワットサム」から転訛したもので「ニレの木の傍ら」の意味です。
昔、ニレの木が繁茂していたところから名づけられたものです。(和寒町HP「和寒町の概要」より)
剣淵町
天塩川との合流点がケネ(ペッ)プチと呼ばれていて、それが全体の川名となったのではないか。(北海道HP「アイヌ語地名リスト」より)
下川町
ここは名寄川南支流のパンケ(下の)・ヌカナン川と、ペ ンケ(上の)・ヌカナン川が流れている所で、そのパンケ・ヌカナンを意訳して「下川」という名にしたのだという。(北海道HP「アイヌ語地名リスト」より)
美深町
現在町名を「びふか」と呼んでいますが、昔は「ピウカ」(アイヌ語で「石の多い場所」)と呼んでいました。(美深町HP「美深町章の由来」より)
音威子府町
アイヌ語で濁りたる泥川、漂木の堆積する川口、または切れ曲がる川尻の意。
昭和38年常盤村から音威子府村に改称する。(音威子府町HP「村の概要」より)
中川町
中川郡の郡名より。天塩川の中流に位置することに由来する。和名と思われる。(北海道HP「アイヌ語地名リスト」より)
幌加内町
ほろかないの由来は、「逆戻りする川」という意味があり、町の南部を流れる幌加内川を指した、アイヌ語の 「horka-nay ホロカナイ」の意とされています。(幌加内町HP「町の概要」より)

渡島総合振興局

函館市
室町時代の享徳3年(1454年),津軽の豪族 河野政通が宇須岸(ウスケシ:アイヌ語で湾の端の意)と呼ばれていた漁村に館を築き,この館が箱に似ているところから「箱館」と呼ばれることになりました。この館跡は今の基坂を登ったところです。
北斗市
「北斗とは小さな星がかたまりあって1つの核をなすともいわれており、上磯町と大野町の輝かしい2つの星が1つの北斗をつくり上げ、これから立派なまちづくりを進めていこう」という願いが込められている
松前町
「万堂宇満伊犬(まどうまいぬ)」という地名、アイヌ語の「マツ・オマイ」「マト・マイ」(婦人の居るところ)というところから、先住民の住む地(蝦夷)に和人の女性も住むという珍しさを表しているといわれています。
福島町
ごく古くは折加内「オリカロナイ」(逆流する川)と呼ばれたが、覚永元年月崎神社の神のお告げにより、福島と改名したのだという。福島村ホームページの「福島町の前身「福島村」の由来にまつわるお話~治兵衛と神のお告げ~」にこのように紹介されていました。
知内町
アイヌ語の「チリ・オチ」(鳥いるところ)の意味があります。知内は鷹の産地として有名で、松前藩が徳川将軍家に鷹狩り用に献上する15羽の鷹のうち、半数以上は知内で捕獲したものと言われています。
木古内町
アイヌ語の「リコナイ」(高く昇る源)、または「リロナイ」(潮の差し入る川)から転化したものといわれるが、明治以前の文献には「リコナイ」の名は見当たらず、アイヌ語の転化、または文献によって語源を考証するなら「リロナイ」が正しいと解してよい。(木古内小学校創立百周年記念誌より)
七飯町
諸説あるようですが、「ナアナイ」(いくつもの川の意)、「ヌアンナイ」(豊かな沢の意)などのアイヌ語から発祥しているようです。(七飯町歴史館HPより)
鹿部町
アイヌ語「シケルペ」が町名の由来。「シケルペ」とは「キハダ(一名シコロ)のある所」の意で、イナウ(神祀る木弊)・薬用・染料他に使う貴重な木であるキハダが多い事からそう呼ばれ、後に転訛して「鹿部」となりました。
森町
古くからアイヌ語でオニウシ(樹木の多くある所)と呼ばれていた。それが訳されて「森町」となったようです。
八雲町
町名は明治14年に徳川御三家の一つ、尾張徳川家(旧尾張藩)の17代当主徳川慶勝侯が、豊かで平和な理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(スサノオノミコト)が読んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を引いて名付けました。
長万部町
アイヌ語でオサマムペ(カレイのたくさん捕れる河口)

桧山振興局

江差町
「えさし」という地名の由来は、昆布が獲れるところ、岬が突き出しているところなど諸説はありますが、はっきりとはわかりません。
上ノ国町
15世紀ころ、北海道(夷(えぞが)島(しま))南部の日本海側は、上ノ国(かみのくに)、太平洋側は下の国(しものくに)と称されていた。 勝山館を擁し、日本海・北方交易の拠点として栄えたこの地に上ノ国(かみのくに)の名前が残ったことに由来します。
厚沢部町
地名の由来はアイヌ語であるが、「アッ・サム(楡皮・のそば)」「ハチャム(桜鳥)」といった諸説がある。
乙部町
乙部とは、アイヌ語「オ・ト・ウン・ペ=川口に・沼・ある・もの」から転化したもので、川は現在、姫川と命名されています。
奥尻町
 古いアイヌ語の「イクシュン・シリ」その後「イクシリ」と訛ったもので、イクは「向こう」、シリは「島」の意味である。
せたな町
町村合併の際、新町名を公募して「せたな町」となりました。 ※「せたな」の語源はアイヌ語の「セタルシュペナイ(犬の川)が略されて「セタナイ(犬の沢)」となり、それが「セタナ」に転化したといわれている。
今金町
区画整備により現在の市街地の基礎をつくった今村藤次郎と金森石郎両氏の姓の冠字をとって市街地を「今金」と呼び、昭和22年には自治制施行50周年を迎えたのを機に「今金町」として町制を施行し、先人たちの偉業に敬意を表しています。

胆振総合振興局

室蘭市
アイヌ語の「モ・ルエラニ」から転化したもので“小さな・下り路”という意味です。崎守町仙海寺(さきもりちょうせんかいじ)前の坂が、ゆかりの地とされています。
苫小牧市
かつて苫小牧川が流れる一帯を「マコマイ」(アイヌ語で「山奥に入っていく川」)と呼んでいた。さらに、沼のあった旧樽前山神社付近をアイヌ語で沼の意味がある「ト」の字をつけて「ト・マコマイ」と呼んでおり、これが「苫小牧」の語源になったという説や、「マコマイ」川の旧河道・河口を指す「トゥマコマイ tu-makomai」(現在の苫小牧市立病院南300 m地点)を語源とする説もある。 文献上の初出は、松浦武四郎の「初航蝦夷日記」中に出てくる「トフマコマフ」とする地名。その後、1869年(明治2年)に勇払郡を統治した高知藩がカタカナで「トマコマイ」と表記しさまざまな漢字か当てられたが、1873年(明治6年)2月に「苫細」と漢字表記される。同年、札幌本道が開通すると開拓使出張所が勇払から移転。駅逓所が設けられることになり、東京開拓使出張所(実質的な開拓使の最高決定機関)が駅名の検討を開始。地名の苫細が「苫小牧」となり、同年11月8日の太政官布告第三六四号にて確定した。しかし、この変更は勇払郡開拓使出張所(地元)に伝わっておらず、翌年、別の公文書にて苫小牧が使われていたことから変更されていたことが発覚。東京出張所に変更を求めたが認められなかった。苫小牧郵便取扱所(後の苫小牧郵便局)の文書によると、1874年(明治7年)8月20日に字名を「苫細」から「苫小牧」に改めたという。一般的に「牧」は「まい」とは読まないので「苫小枚」とすべきところだが、開拓使東京出張所庶務課の小牧昌業が「細」を「小枚」と修正する際に誤って、書き慣れている自分の名字の「小牧」を記入してしまったという説がある。(Wikipediaより)
登別市
アイヌ語「ヌプルペッ」(色の濃い川)
伊達市
明治3年(1870年)、亘理(わたり)伊達家の当主伊達邦成(だてくにしげ)とその家来たちが集団で北海道に移り住みました。まだ、人が住めるような土地ではなかった場所を、みんなで力をあわせて畑や道路、家をつくり、村ができました。 町の名前は、伊達家の名前をとって「だて」とつけました。これが伊達市の始まりです。
豊浦町
地名の由来は、農産物、水産物が豊かで内浦湾に面していることからである。 かつては、弁辺(べんべ)と呼ばれていたが、昭和7年豊浦村に改称 弁辺(べんべ)とは、アイヌ語で「ベツベツ(川・川) 小さい川が集まったところ」である。
洞爺湖町
アイヌ語「トヤ」は湖・の岸の意
壮瞥町
アイヌ語で「滝の川」を意味する「ソーペツ」より転化し「壮瞥」となりました。
白老町
白老とは、アイヌ語で「虻(あぶ)の多いところ」と言う意味の言葉「シラウオイ」からきたと言われています。
安平町
「安平」の名称はアイヌ語由来であるが諸説あり、「アㇻピラペッ(ar-pira-pet)」(一面・崖の・川)、「アㇻピラ(ar-pira)」(片側・崖)、あるいは「アビラ」(光る崖、の意とされる)などがある
厚真町
町名はアイヌ語の「アットマム」ar-tomam(向こうの・湿地帯)に由来するとする説と、「アトマプ」at-oma-p(オヒョウニレ・ある・もの・場所)とする説などがあるが、古い地名であり、特定は困難な状況である。
むかわ町
地名の由来は、アイヌ語の「ムカ」(水の湧く)ここは水上平原で、所々に水が湧き出で源水となったためという。「ムカプ」(ツルニンジンがあるところ)昔は浜近くの草原にツルニンジンがたくさんあったという。「ムッカ・ペツ」(塞がる川)鵡川が上げ潮のため砂で川口が塞がれるからである。など、様々な説がある。

日高振興局

日高町
北海道の日高振興局(旧・日高国)北部にある町。2006年(平成18年)3月1日に、当時互いに接していなかった(旧)日高町と門別町の2町が廃置分合(新設合併)して現在の「日高町」となった。
平取町
町名の平取(びらとり)は、アイヌ語「ピラ・ウトル」(崖の間を意味)から出たもの。
新冠町
この地は、はじめ「ピポク」(岩の陰)の名で呼ばれていましたが、文化6年「ニカプ」に改 められ、これに「新冠」の文字を当てて地名となりました。  この地に住むアイヌが「ニカプ」(楡の皮)で作った着物を着ていて、その色が茶褐色を帯び た特有のものであったからだといわれています。(新冠町HPより)
新日高町
『新ひだか町』は、平成18年3月31日にそれまでの「静内町」と「三石町」が合併して新たに誕生した町です。
浦河町
アイヌ語で「霧」の事を「ウララ」と言い、「川」の事を「ペッ」と言います。「ウララ」の音に「浦」の字をあて、「ウララ」を「河」に訳して命名されました。松浦武四郎は 「ウラカ」 = 「靄(もや)の立ち上る様」を言い、このことから「靄が立ってたなびいていることが多い」ことに 由来するとしています。浦河の由来となった「ウララペッ」はどの川かというと、野深から荻伏を流れる元浦川を指しています。
様似町
様似町名の由来はアイヌ語の「サンマウニ」(朽ち木のある所の意)から出たものと言われています。
えりも町
アイヌ語で「エンルム」、突き出た頭の意味です。これが転訛して「エリモ」になったと考えられています。

釧路総合振興局

釧路市
アイヌ語による以下の諸説があるが定かではない。「クッチャ ロ」(のど)、「クシベツ」「クシナイ」(通り抜けることのできる川)、「クシ ュル」(通路)、「クスリ」(薬・温泉)
釧路町
釧路という名称は、アイヌ語の「クシュル(通路)」、「クツチヤロ(咽喉)」、「クスリ(意味不明)」のいずれかが転化したものといわれていますが、定説はありません。
厚岸町
アイヌ語の『アツケウシイ』(アツ[at]=オヒョウニレの樹皮、ケ[ke]=はがし、ウシ[us]=いつもする、イ[i]=所)、または『アツケシ』(牡蠣の漁場の意)からの転訛説があります。
浜中町
町名の由来は、アイヌ語「オタノシケ」(砂浜の真ん中)を意訳したもの。この砂浜は、現在の榊町から暮帰別にかけての海岸をあらわす。
標茶町
標茶(しべちゃ)はアイヌ語の「シペッチャ」という発音がなまったものです。 「大きな川のほとり」を意味しており、語源のとおり町の中心に母なる川「釧路川」をはじめ、別寒辺牛川、西別川の三大河川により産業と開拓の歴史が刻まれています。
弟子屈町
町名弟子屈(てしかが)の「テシカ」とはアイヌ語で「岩磐」、「ガ」は「上」という意味です。 この場所は現在の摩周湖観光協会付近にあたり、かつては釧路川がその岸を洗っていました。 非常に岩の多い急流でしたが、同時に魚のたまり場のようなところでもあったため、アイヌの人達は何とかこの魚を獲りたいと網をかけようとしました。ところが、岩が多くついに杭を打ちこむことが出来なかったそうです。 アイヌの人達は「せっかくたくさんいる魚をとる仕掛けもできない岩磐の上だ」と嘆きました。 弟子屈の語源はこれから生まれた訳です。
鶴居村
鶴が居るから鶴居村。と安易な村名と思うかも知れませんが、タンチョウは釧路湿原の中で営巣や子育てをしています。 特別天然記念物タンチョウの生息繁殖地に因み、村名を「鶴居村」と称しています。
白糠町
『シラヌカ』という地名の語源にはいくつかの説がありますが、アイヌ語のシラリ(磯)、カ(上)やシラルカ、シラリイカで、波が磯を越えしぶきが立つ「岩磯のほとり」を指すといわれ、現在の白糠漁港に注ぐオクネップ川からシラリカップ川付近の岩磯地帯を見てつけられた地名といわれています。(白糠町HPより)

根室振興局

根室市
アイヌ語の「ニムオロ」(樹木の繁茂する所の意)といわれている。 (根室市HPより)
別海町
町最大の河川である西別川の河口が大きく曲がっていることから、アイヌ語の「川の折れ曲がっている」を意味する「ペッ・カイエ」から転化したもの。(別海町HPより)
中標津町
中標津とは、日本語の「中」とアイヌ語の「シペッ=大きな川」に当て字した「標津」を組み合わせたものです。北海道全体の地名がアイヌ語地名であるように、中標津の付近も同様でした。明治時代までの地図にはアイヌ語地名がカタカナで記されていましたが、その後、和人の増加に伴いアイヌ語地名は漢字で当て字されるようになりました。そのため、一見日本語のような地名に変わってしまったため、元のアイヌ語地名の発音とは異なる地名が生まれることもありました。(中標津町HPより)
標津町
町名の由来はアイヌ語の「シペッ」(大きな川)から。( Wikimapiaより)
羅臼町
 町名「羅臼」はアイヌ語「ラウシ(獣の骨のある所の意)」から転化したもの。  この地一帯はアイヌの狩猟の地であったためこの名が起こったという。(羅臼町HPより)

十勝総合振興局

帯広市
帯広の名の由来は、アイヌ語のオペレペレケプ(河口がいくつにも分かれている川)がなまってオベリベリ、そして帯広(おびひろ)になったと考えられています。(帯広市ホームページ より)/dd>
音更町
町名の音更は、アイヌ語のオトプケ(毛髪が生ずる)から転訛(てんか)したもので、音更川と然別川の支流がたくさん流れているところからついたと言われています。(音更町HPより)
士幌町
町の名前になっている「士幌」は、アイヌ語の「シュウウォロー」が転訛して名付けられたものだと言われています。”広大な土地”を意味した「シュウウォロー」の発音を訛って変化させ、今の町名「士幌」ができました。(士幌町HPより)
上士幌町
士幌村(現在の士幌町)からの分村する気運が高まり、1931年(昭和6年)4月1日に上士幌村が誕生した。(Wikipediaより)
鹿追町
鹿追はアイヌ語の「クテクウシ」からきています。 クテクウシの「ク」とは弓の称なれども、この場合は機弓、すなわちアマッポーという。クテクとは、柵の跡にして、柵を結びアマッポーを仕掛け、鹿を猟せし所なり。クテク・ウシ(鹿捕り柵、あるもの)のところと訳す。鹿追とは、これを和訳して呼ばれた地名である。 (鹿追町HPより)
新得町
アイヌ語で「シットク・ナイ」がなまったもので、山の肩、または端という意味。また、アイヌの人たちがお酒を造るための漆器を「シントコ」といい、これを作るための土地だったとも言われています。(新得町HPより)
清水町
「清水」はアイヌ語で「明るく清らかな川」を意味する「ペケレベツ」を意訳したものです。 明治32年に開設した「ペケレベツ駅逓」の取扱人である村山和十郎が、人舞村、屈足村を直轄していました。しかし、駅名と一致せず行政・経済面で不便なため、昭和2年9月25日に清水村と改め、昭和11年1月1日より町制が施行され「清水町」となりました。(十勝清水町HPより)
芽室町
芽室町(めむろちょう)の名前の由来は、アイヌ語で「メム・オロ」。「川の源の泉や池から流 れてくる川」という意味です。(芽室町HPより)
中札内村
村名の語源は、アイヌ語で「乾いた川」を意味するサチナイと、札内川の中流に位置するという意味からなっています。(中札内村HPより)
更別村
村名の「さらべつ」は、その昔サラベツ川、サッチャルベツ川流域が葦や茅に覆われた平原であったことを意味するアイヌ語の「サラ・ペツ」(葦や茅が生い茂る地)に漢字を当てはめたことからきています。(更別村HPより)
大樹町
アイヌ語で「大木が群生するところ」を意味する「タイキウシ」からつきました。(大樹町ホームページより)
広尾町
町名は、アイヌ語の「ピルイ」が語源といわれ、「ピ」は石が転がる、「ルイ」は砥石(といし)がとれる地という意で、この言葉が変化し、明治2年の国郡制定で広尾郡茂寄村が誕生するまでの間「ピロー」、「ビロウ」などと呼ばれていました。また、昭和元年10月に広尾郡広尾村に改称され、昭和21年9月20日に町制施行により、現在の広尾郡広尾町となりました。(広尾町HPより)
幕別町
アイヌ語の「マクウンペツ」が. 転訛したもので「山際を流れる. 川・または後 川」. と訳される。(幕別町HPより)
池田町
北海道では珍しくアイヌ語の地名ではなく、明治29年に鳥取藩主の池田侯爵によって、本格的な開墾始まったことに由来しています。(池田町HPより)
豊頃町
「トエコロ」と発音すると「大きなフキ」のあるところの意味もあるが、別に「トピオカル」または「トプヨカオロ」と発音し「人死して住まわざるところ」の意味ともされている。語源は、昔カシピラ(常室)の酋長がコタノロ(池田町と豊頃町の境界の沢)を襲撃したとき逆襲を受け豊頃町の小沼に身を投じて全滅し、豊頃コタンが無人の地となったという伝説から生まれた地名であるという。 また、「トイ・コロ」といい、「土多く礫少ないところ」の意もあるという。(豊頃町ホームページより)
本別町
町名の由来は、アイヌ語の「ポンペッ」(pon-pet=小さい・川)から。(Wikipediaより)
足寄町
アイヌ語の「エソロペッ」(沿って下る・川)に由来する。かつて、釧路方面から阿寒を超え、現在の足寄川に沿って十勝・北見へ出たことによる。(Wikipediaより)
陸別町
アイヌ語のリクンベツに由来し、意味は高く上がっていく川、又は危ない高い川。 昭和24年以前は淕 別(リクンベツ)でした。(陸別町HPより)
浦幌町
浦幌町とは、アイヌ語の「オーラポロ」が転訛して浦幌となり、「オー」は川尻・「ラ」は草の葉・「ポロ」は大きいという意味で、「川尻に大きな葉が生育するところ」といわれています。(浦幌町HPより)

オホーツク総合振興局

北見市
明治政府に国名を諮問された松浦武四郎が「この地一帯を従来から北海岸と唱えて きたので、北の文字を用い、カラフト島が快晴の日には見えるので、北見としてはどうか」と進言したことによるものです。(北見市HPより)
網走市
「網走」という地名は「ア・パ・シリ」(我らが見つけた土地)から出たとも、「アパ・シリ」(入り口の地)あるいは「チバ・シリ」(幣場のある島)などの諸説があって定まりませんが、いずれにしろ「アパシリ」というアイヌ語を漢字にあてたものとされています。(網走市HPより)
紋別市
紋別の地名は、アイヌ語の「モペッ」(静かな川の意味)からきています。 紋別市の中心地の地名が、川がないのに「モペッ」(静かな川の意味)と呼ばれるのは不思議に思われますが、もともとは元紋別を流れている「藻鼈川」を指したもので、モペッコタンに住んでいたアイヌの人たちが付けた地名です。 現在の紋別市街の方に番屋ができて、モペッコタンに住んでいたアイヌの人たちが移り住むようになり町並みができると、いつの間にか地名も移動し「モペッ」が使われるようになりました。(紋別市ホームページより)
大空町
大空町という名称は、澄み切った大空、そしてその大空の下に広がる実り豊かな大地のもとで、住民が夢や希望を持ち、晴れ晴れした気持ちで暮らしていくことを(意味する。)めざすものとして命名されました。(大空町HP大空町の概要より)
美幌町
多くの清流が、合流して水量が豊富なところをアイヌ語で「ピ・ポロ=水多く・大いなる所」といい、これが転訛して「ビホロ」と名付けられました。明治初期までは、カタカナで表記していましたが、明治8年5月に漢字の「美幌」に統一されました。(美幌町HPより)
津別町
アイヌ語の「ツペツ(山の出ばなを通って流れる川)」が通説となっています。(津別町HPより)
斜里町
町名の由来は、アイヌ語の「サル」または「シャル」が転訛したもので、いずれも「アシが生えているところ」の意味がある。(Wikipediaより)
清里町
清里町は清らかな里であるという意味と、小清水村と斜里町から分村した という歴史を将来に残す意味(「清」は小清水の清、「里」は斜里の里である)兼ねて名付けられました。(清里町のホームページより)
小清水町
町名の由来は、アイヌ語「ポン・ヤワンペッ」(小さい方の内地側の川、すなわち止別川の支流)が「ポン・ヤンペッ」(小さな冷たい川)と誤解され、それが意訳されたと言われています。
訓子府町
訓子府町の名は、アイヌ語で「クンネプ」から転訛したもので「黒いところ、やち川にして水黒し」の意味から由来しています。(訓子府町HPより)
置戸町
現在の緑川を指すアイヌ語の「オケトゥウンナイ」(川尻に・獣皮を乾かすその張り枠・ある・川)の前半部に字を当てたものであるとされる。(Wikipediaより)
佐呂間町
アイヌ語の「サロ・オマ・ペット(葦のあるところの沼)」から”サロマ”となり、”佐呂間町”と転用したものです。
遠軽町
地上から約78メートルにそびえる瞰望岩(がんぼういわ)は、アイヌ語で「インカルシ」、見晴らしの良いところという意味です。えんがるの町名はこの言葉に由来するほど、瞰望岩は町のシンボル的な存在で、町のあらゆる所から望むことができ、その場所ごとに表情が変わります。(遠軽町HP(がんぼういわ)より)
湧別町
アイヌ語で「イペオッイ(イペオチ)」魚・豊富である・所の意味です
滝上町
大正7年渚滑村から分村して滝上村となった。滝上はポンカムイコタンの滝の上の所の意。(Wikipediaより)
興部町
町名の「おこっぺ」はアイヌ語「オウコッペ」より転訛したもので、「川尻の合流しているところ」の意であり当時は、興部川、藻興部川が合流しオホーツク海に注いでいたところから、このように呼んでいたとされています。(興部町HPプロフィールより)
西興部村
村の名の由来「興部」とは、アイヌ語の「オウコッペ」より転訛したもので、「川尻の合流したところ」の意があり、当時興部川と藻興部川が川尻で合流してオホーツク海に注いでいたので名付けられた。本村は、興部の西方に位置するので、西の字を冠したものである。(西興部村HPより)
雄武町
雄武という地名の語源は、アイヌ語の「オムイ」(河口が塞がる)に由来します。雄武川の河口は、嵐の時には、川から流れ出る水よりも、海から打ち寄せる波のほうが強く、河口が塞がってしまうため、このような名称がついたと言われています。(雄武町HPより)

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