北海道はもともとアイヌ民族が暮らしていたため、市町村名はアイヌ語に由来している名前が多数を占めます。アイヌ語地名を紐解いていくとその土地の昔の姿が浮かび上がります。それは、アイヌの人たちが自然に接し、生活しながらその土地とのかかわりを特徴的に捉えて名付けていたためでしょう。しかし、口から口へと伝えられるアイヌ語については発音が変わってしまったり、本来の意味とは違う漢字があてはめられたりしているため、解釈が難しく、諸説あるものが多く存在しています。その中でも、ここでは各市町村の見解を尊重し、各市町村公式サイトから引用するようにしています。市町村の公式サイト内にある概要や、資料のPDFなどもチェックしました。また、日本国有鉄道発行の「北海道 駅名の起源」という本も参考にしています。引用元に関しては()にて表示しています。
釧路総合振興局
松浦武四郎の提案をもとに、蝦夷地を「北海道」と改称し11ヵ国86郡を置いた際、白糠・足寄・久摺・善報・阿寒・網走・上川・厚岸の8郡を釧路国とし、1897年には郡役所の代わりとして釧路支庁が設置され、1922年に釧路国支庁と改称、さらに1957年にふたたび名称を釧路支庁に戻しました。2010年釧路支庁に代わり、釧路総合振興局が発足しました。釧路管内には、8市町村(釧路市・釧路町・厚岸町・浜中町・標茶町・弟子屈町・鶴居村・白糠町)があります。
総合振興局名の「釧路」の由来については釧路市や釧路町と同じだと思われますので、釧路市や釧路町を参照してください。
釧路市
アイヌ語地名は諸説あってクスリともクシュリともクスルとも呼んだ。クシは「越える」または「通る」ルは「道」と解釈されるので「越える道、通る道」と考えられる。和名では久摺、久寿里などで書いた。釧路と名が定まったのは明治維新後である。(「北海道 地名の謎と歴史を訪ねて」より)
アイヌ語の「クッチャ ロ」(のどの口)すなわち沼口から出たものと言われる。(「北海道 駅名の起源 日本国有鉄道北海道総局」より)
明治13年、釧路戸長役場が置かれ、明治33年に北海道1級町村制が施行され釧路町となり、大正11年に市制が施行され、釧路市が誕生しました。平成17年に当時の釧路市、阿寒町、音別町が合併して新生「釧路市」となりました。
釧路町
釧路という名称は、アイヌ語の「クシュル(通路)」、「クツチヤロ(咽喉)」、「クスリ(意味不明)」のいずれかが転化したものといわれていますが、定説はありません。
釧路町の由来は釧路市のものと同一と思われます。
1980年町制施行により道内で155番目の町として「釧路町」が誕生しました。その後市町村合併などの協議はありましたが、最終的に単独での存続となりました。
厚岸町
アイヌ語の『アツケウシイ』(アツ[at]=オヒョウニレの樹皮、ケ[ke]=はがし、ウシ[us]=いつもする、イ[i]=所)、または『アツケシ』(牡蠣の漁場の意)からの転訛説があります。(厚岸町公式サイト「厚岸町プロフィール~町名の由来」より)
1879年、郡区町村編成法により厚岸郡役所を設置し、厚岸、釧路、白糠、阿寒、足寄、上川、網尻の7郡を管轄、1882年、開拓使を廃し札幌、函館、根室の3県が置かれ、厚岸郡は根室県の管轄となり、1886年、根室県など3県の廃止で札幌に北海道庁が設置されると同時に根室支庁が置かれ、厚岸郡はその管轄となりました。1891年、厚岸郡役所は釧路郡役所に併合して廃止となり、4町7村戸長役場を設置、1900年、1級町村制の施行により4町7村は厚岸町となりました。
浜中町
部落が砂丘の中央にあったので「浜中」という村名となった。(「北海道 駅名の起源 日本国有鉄道北海道総局」より)
釧路総合振興局の公式サイトの「釧路管内の概況」によると、浜中町の町名の由来は、”アイヌ語の「オタノシケ」(砂浜の真中の意)を意訳したもので、町の発祥の地(現在の榊町付近)が砂浜の中央に位置していたことによるとされています”となっています。
1880年、浜中戸長役場が開庁しましたが、1884年に廃止され、厚岸郡役所出張所が置かれました。1906年、2級町村制を施行し、霧多布外1町4カ村を合わせて浜中村が誕生、1919年、1級町村制を施行し浜中町となりました。
標茶町
標茶(しべちゃ)はアイヌ語の「シペッチャ」という発音がなまったものです。「大きな川のほとり」を意味しており、語源のとおり町の中心に母なる川「釧路川」をはじめ、別寒辺牛川、西別川の三大河川により産業と開拓の歴史が刻まれています。(標茶町公式サイト「標茶町の由来とあゆみ~語源はアイヌ語」より)
標茶町の開基年は、1885年で、釧路集治監が標茶に設置された年となっています。釧路集治監は1901年には網走分監に移されますが、公立病院、郵便局、日本銀行熊牛支金庫など、標茶に集治監が置かれたことで設置されたことを考えると、集治監が置かれたことが、今日の標茶のいしずえになったとされたようです。その後1923年二級町村制が施行され熊牛村となりますが、1929年に標茶村と改称、1950年の町制施行により標茶町となりました。
弟子屈町
町名弟子屈(てしかが)の「テシカ」とはアイヌ語で「岩磐」、「ガ」は「上」という意味です。
この場所は現在の摩周湖観光協会付近にあたり、かつては釧路川がその岸を洗っていました。
非常に岩の多い急流でしたが、同時に魚のたまり場のようなところでもあったため、アイヌの人達は何とかこの魚を獲りたいと網をかけようとしました。ところが、岩が多くついに杭を打ちこむことが出来なかったそうです。
アイヌの人達は「せっかくたくさんいる魚をとる仕掛けもできない岩磐の上だ」と嘆きました。
弟子屈の語源はこれから生まれた訳です。(弟子屈町公式サイト「弟子屈町の概要~町名の由来」より)
1903年、当時の熊牛村(現在の標茶町)から分村し、弟子屈外1村戸長役場が設置され、1923年、二級町村制を施行し、弟子屈村となりました。1943年には一級町村制を施行、1947年に町制施行し、弟子屈町となりました。
鶴居村
鶴が居るから鶴居村。と安易な村名と思うかも知れませんが、タンチョウは釧路湿原の中で営巣や子育てをしています。
特別天然記念物タンチョウの生息繁殖地に因み、村名を「鶴居村」と称しています。(鶴居村公式サイト「鶴居村プロフィール~位置と地勢の一部抜粋」より)
1885年、釧路市茂尻矢の旧土人が下雪裡(現「鶴居村下雪裡」)へ移住し農業に従事、1887年下雪裡に阿寒郡各村戸長役場が設けられました。1937年、舌辛村(現阿寒町)より分村、2級町村制を施行し、鶴居村が誕生しました。
白糠町
我が町の『シラヌカ』という地名の語源にはいくつかの説がありますが、アイヌ語のシラリ(磯)、カ(上)やシラルカ、シラリイカで、波が磯を越えしぶきが立つ「岩磯のほとり」を指すといわれ、現在の白糠漁港に注ぐオクネップ川からシラリカップ川付近の岩磯地帯を見てつけられた地名といわれています。(白糠町公式サイト「白糠町は、こんな町~町名の由来の一部抜粋」より)
1884年、戸長役場が設置され、これが開基とされています。1915年、白糠村として2級町村制を施行、1950年に町制が施行され白糠町となりました。
参考文献(Amazon)
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